(底本:國分功一郎『暇と退屈の倫理学』初版第五刷,朝日出版社)

本書に登場する引用を時系列順に整理する.

序章 「好きなこと」とは何か

18th; Kant

人間は世界を受け取るだけでない.それらを自分なりの型にあてはめて,主体的にまとめ上げる.[…] そして,人間にはそのような主体性が当然期待できるのだと,カントはそう考えていた.

アドルノとホルクハイマーが言っているのは,カントが当然と思っていたこのことが,いまや当然ではなくなったということだ.人間に期待されていた主体性は,人間によってではなく,産業によってあらかじめ準備されるようになった.産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし,あらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差しだしている.

1878; William Morris

余裕を得た社会,暇を得た社会でいったい私たちは日々の労働以外のどこに向かっていくのだろう?

Morris 自身の回答は「民衆の芸術」.

1930; Bertrand Russell

私見では,西欧諸国の最も知的な青年たちは,自分の最もすぐれた才能を十分に発揮できる仕事が見つからないことに起因する不幸に陥りがちであることを認めなければならない.しかし,東洋諸国では,そういうことはない.[…] そこには,創造すべき新世界があり,新世界を創造する際に拠るべき熱烈な信仰がある.(『幸福論』安藤訳)

打ち込むべき仕事を外部から与えられない人間は不幸か.豊かさを目指す努力は空しいのか.

1947; Max Horkheimer, Theodor W. Adorno

文化産業が支配的な現代においては,消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている.(『啓蒙の弁証法』徳永訳)

1958; John Kenneth Galbraith

現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている.広告やセールスマンの言葉によって組み立てられてはじめて自分の欲望がはっきりするのだ.[…] 欲望は生産に依存する.生産は生産によって満たされるべき欲望を作り出す.(『ゆたかな社会』鈴木訳)

最近ならインフルエンサーの言葉などと言い換えてよい.当時の経済学者には冷遇されたが,いまや「消費者主権」が幻想であることは明らかになった.

2000; Alenka Zupančič

近代があらゆる価値を相対化した結果,生命がもっとも尊いなどといった原理しか提出しなくなった.このような原理は人を突き動かさない.そのため,国家や民族といった伝統的な価値に回帰する傾向が生じた.

たとえば,大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち.人々は彼らを,恐ろしくもうらやましいと思うようになっている.(『リアルの倫理』冨樫訳)

大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは,暇と退屈に悩まされている人間だということである.

第一章 暇と退屈の原理論

17th; Pascal

第二章 暇と退屈の系譜学

第三章 暇と退屈の経済史

第四章 暇と退屈の疎外論

第五章 暇と退屈の哲学

第六章 暇と退屈の人間学

第七章 暇と退屈の倫理学